挫折と葛藤そして感謝

[物理学について]

 

本来あるべき姿 と 今現在大学受験の科目として利用されている姿 とでは大きなギャップがあると思う。またこれからする話は物理だけでなく他のほとんどの科目に対しても言える事なのかもしれない。

 

受験生が物理を学ぶのはテストで高得点を取るためである。当たり前だ。

 

ここまでは私も納得である。

 

そしてその目的のために受験生がする行動は 先人たちが長い年月をかけて創りあげてきた公式を覚えたり、その利用方法を学ぶことだろう。これはテストで問われるのが“実験結果”だからである。どの参考書、過去問を探してみてもほとんどの問題が結果ばかり聞いている。

 

果たしてこれでいいのだろうか。。。

 

物理学はもともと身の回りの現象を解析する学問である。そのために実験を行い、得られた実験結果を一般化し、理論を創造する。

 

そう。逆なのである。本来、結果→理論 のはずが 試験では、理論→結果 になってしまっている。もちろん実際、結果→理論の順番で問う問題を作ることは極めて難しい。理由は一つ。私がそうであったように、受験生はそこまで頭が良くないからだ。受験生の6割がアルベルト・アインシュタインであれば話は別だが。。。要するに限られた時間の中での理論の創造は極めて難解であり、差がつかなくなってしまうのだ。(というか、先人たちは長い時間をかけて熟考することによって様々な理論を創作していたはずだし。。。)

 

しかし普段の授業はどうだ。なにも理論→結果の順番に縛られる必要はないのである。

むしろ結果→理論の順番で学ばなければならないのである。その行為こそが物理の本質であると十分言えると思うし、このような教育を受けていない受験生は 理論の創造 を行うことができるのだろうか。(もちろん、国にとって都合の良い真面目で学んだことをそのまま吐き出す再現性の高い人間のみを育てることが教育なら何も問題はない。しかし私はそうは思わない。なぜなら、これから物理学を発展させていくはずであった天才と呼ばれるような人たちの才能を殺す可能性があるからだ。)

 

教科書も本当にあれで良いのだろうか。教科書を開けばすぐに公式が目に飛んでくる。これはカンニングともいえるのではないか。まず与えられた(得られた)実験結果から自分なりに考える。これが必要なのではないか。もちろん、考えたところで正解が得られないことがほとんどだろうが。考えるという過程に意味があると私は考える。

 

ではどのように物理を勉強するべきなのだろか。

私は「物理学はいかに創られたか」を常に意識することが現在の教育環境下でとれる最善の策だと考える。この意識を持つことにより、先人たちが「何を思い理論を創造してきたのか」「どのような心構えで実際の現象と向き合ってきたのか」「どのような心構えで周囲の人間に自分の考えを理解してもらうか」などが見えてくるはずである。これらの絶対に教科書には載っていないし誰も教えてくれない(教えられない)が重要な問いに対して自分なりの答えを持つべきなのではないか。それはうまく言葉に表せなくても良い。そして、3つ目の問いは物理以外の学問を学ぶ際にも重要な事だと思うし、人生を歩んでいく中で「自分が自分らしくある」ためにも極めて重大な役割を担っていると思う。そしてこれを学ぶのに物理は適していると思う。そもそも物理の理論が創造されてから皆に理解されるまでの間はただの自己満でしかないのだ。言ってしまえば当人の趣味趣向が詰まった「オナ二ー」だ。自分の「オナ二ー」を他人に理解される事がどれほど難しいかは容易に想像できるだろう。だから私は物理で他人を納得させる過程で「心構え」を習得できることがあると思う。

 

私の高校時代の塾の物理講師にはとても感謝している。この先S先生と呼ぶ。理由はいくつかある。

まず受験科目としての物理が得意になった事が挙げられる。これはもちろん受験生にとってありがたいことであった。

また今まで語ってきた「受験科目としての物理と物理学の違い」に気づかせてくれた事も挙げられる。授業中に「結果→理論、理論→結果」の話をボソッと言っていたのがいまでも印象に残っている。

私は高校一年の力学の授業で登場する3つの公式「v=v₀ +at」「x=v₀t+1/2at²」「v²-v₀²=2ax」を習った時、最初は意地でこれらの公式を覚えないと決めていた。物理についてまだ何も知らないくせに「物理ってこうじゃないはず!!」と決めつけていた。試験が近づいてきて問題演習をしていく中で、経験則的にv―tグラフを書けばすべての問題が解けるのではないかと考えた。それをクラスの友達数人に話したところ微妙な反応をされた。私が通っていた高校は世間一般ではレベルの高いほうと認知されていたし、「みんな頭良いなあ」と思っていたので、「誰も納得してくれないのなら自分が間違っているんだろう。」と非論理的な考え方に至った。結局試験当日の朝に周りに合わせて公式を暗記した。結果は散々。私はすっかり自信を無くしそこから1年ほど物理に苦手意識を持つようになった。だがS先生の3回目の授業の冒頭、「等加速度直線運動はv-tグラフを書けばすべての問題が解ける!世の中には公式が出回っているがすべてv-tグラフを用いて証明することができる。」と言った。その時、一年間心のどこかに引っかかっていたものが消え、物理に対する苦手意識がきれいさっぱり消えたのだ。「私はやっぱり正しかった!」と本当に嬉しかったのを覚えている。ここからだんだんと物理が好きになってきた。これが三つ目だ。

四つ目は教え方について。S先生は法則や理論を紹介するときに必ず歴史的な背景や論文に記されている例えなどを紹介してくれた。少し紹介しよう。

マイケル・ファラデーMichael Faraday)は電気分解の実験をしている際に、陰極に析出した銅(Cu)が陽極に近いほうだけでなく全体に析出していることに気が付いた。ファラデーは「おかしい。何か(後の電場(electric field))がある。」と考え、コルクの粉末を浮かべてみたところ、興味深い模様を形成した。(これを後にファラデーは電気力線(electric flux line)として扱っていく。)その後、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell )は電気力線を水に例え、正の電荷を水が湧き出す所、負の電荷をシンクと例えた。

こんな感じで時代背景を細かく説明してくれた。(ほかのほとんどの生徒たちはおそらく聞いていなかったが。)時代背景や例えを知ることにより、先人たちの生の声を聴くことができるのだ。そして「物理学はいかに創られたか」を考えることができるのだ。

S先生は私が話した事がある人の中で最も優れた物理のセンスを持っていたと思うし、尊敬している。改めて、感謝申し上げたい。

 

p.s.

現在の高校物理の範囲で実験結果のみが与えられている事が一つだけある。それは空気抵抗である。教科書には載っていないがf=kv という式を見たことがある人は多いと思う。また速さが比較的小さい時にのみこの式は成り立ち、速さが比較的大きい時には速度の2乗に比例する。などという物凄く曖昧かつ漠然とした説明をされる。チャンスです。こういう時こそ自分の頭で考えることができます。自分が必要だと思う変数を文字でおき、○○かな?××かな?と考えて下さい。高校物理の範囲で理論を創造することが可能かもしれません。

 

 

Composed by John

 

はじめに

『序文 〜知音よ永遠なれ。〜』

 

このブログはジョンとカールというハンドルネームの青年が運営を行い、様々な事柄について我々の私見を述べていく。 予めはっきり申し上げると、まだ我々は勉強が足りていない青二才である。故に考えが至らない点も多くあろうかと思うが、批判や指摘には謙虚に忠実に向き合っていく所存だ。 というのも言うまでも無くこれが、「知」の探究者たる者のの基本姿勢だからだ。読者諸君にもこの、ソクラテスから脈々と受け継がれた態度をもって関心を深めてくれることを期待する。 ここからは運営の2名の紹介に移ろう。

 

『はじめまして。ジョンです。』

 今日から始めるこのブログでは、私が学んだこと考えた事を自分の言葉で発信していきます。 私はつい最近まで受験生だった。無事志望する大学に進学できたのだが、受験勉強の中で得た知識を時の流れに任せて闇に葬り去るのはいかがなものかと思った。そこで自分のメモ帳的な意味も込めてこのブログを始めることにした。 だったらメモ帳でいいじゃん!!と思うかもしれない、まあそうなんだよね。 でも、間違ってたら指摘してほしい意見交換もできたらもっと良いなと思う。

 

『ご機嫌よう、カールだ』

 この名は無論、カール大帝から頂戴したわけだが、そんな大層な名前と共に私が何をしたいのか。 お答えしよう、それは「学び」だ。“ブログの目的は発信なんだから学習に不向きだ”と考えるのは安直だ。発信作業のプロセスには「自分の考えをまとめて整理する」というクルーシャルな知的営為が内包されている。「伝える」というのはとても難しいことなのだ。しかし、私たちの学びが、読者の皆様とのやり取りでさらに深まる事は間違いない。感想、質問、異議、反論… 是非アクションを頂きたい。